元自宅に戻ると、先ほどの部下の人が残っていました。 「・・・落ち着かれましたか。雨に降られたようですね」 「あの・・・着替えても、いいですか」 「残っているものであればどうぞ。すべてを差し押さえたわけではありませんから」 「・・・できればシャワーも浴びたいんですけど」 「それは申し訳ないですがご遠慮ください」 「でもっ・・・」 「あなたのことを上司に連絡したところ、場合によっては力になれるかもしれないと、お待ちになっています。 見つかり次第連絡するようにと言われていますので」 上司・・・?パパに、お金を貸してくれた人? 何もわからないことだらけだったけれど、とにかく行き先を与えられたことに安心感を覚えたわたしは、 急いで部屋に戻って着替え、ケータイと鞄をつかむと、濡れた髪をタオルでふきながらその人の車に乗りこみました。 案内されたのは、名門と評判の出木杉学園、その大きな理事長室でした。 ふかふかのソファに座って温かいお茶をごちそうになっていると、ふいに涙腺がゆるんでしまって、止めるのが大変でした。 部下の人の説明を聞いた後、まだ若そうな理事長さんはしばらくいくつかの書類に目を通していましたが、しばらくしてわたしにこう言いました。 「それは災難だったね・・・でも残念ながら、こちらとしても抵当物件をお返しするわけにはいかないんだよ」 「・・・はい、わかっています。すみません、ちょっとどうしたらいいかわからなくて、取り乱しちゃいました」 「ずいぶんしっかりした方だと思ったけれど・・・まだ高校生なんだね。突然のことでは無理もないだろう」 「本当にご迷惑おかけしました。あの・・・わたし、すぐ働いてお返しします!」 理事長さんは少し困ったように微笑むと言いました。 「卒業もしていない女子高生が払う額にしては、ちょっと多いと思うよ」 「でも・・・っ」 「そうだな、僕と結婚したまえ。そうすれば全額帳消しになる」 「へ・・・?」 理事長さんの言葉を一瞬理解できなくて、しかも横にいた部下の人も無反応なので、わたしはますますわけがわからなくなってしまいました。 数十秒ほど室内の空気が固まっていた後、理事長さんがくすくすと笑い出したのです。 「冗談だよ。・・・ちょっと調べさせてもらったが・・・君、お母さんが亡くなってから、おうちのこと一切やっているそうだね」 「・・・マ・・・母は、まだ亡くなったとわかったわけではありません」 「ああ失礼、行方不明になられてから、だね」 ママ。5年前、海外での演奏旅行途中に飛行機事故に遭い、それきり行方がわからなくなってしまったママ。 墜落したのが深い雪山で、機体が巨大なクレバスに落ちてしまって、 捜索隊も手の施しようがなかったと、数週間で打ち切られてしまった。 事故の後パパも色々手を尽くしたけれど、まったく手がかりのないまま時間だけが過ぎた。 パパもわたしも、いつママが帰ってきても怒られないようにがんばろうね、と励ましあってきた。 パパが仕事とママの捜索に集中できるように、わたしも家事を引き受けて、そうして今まで暮らしてきた、のに・・・ どうしよう、わたし、ひとりぼっちに、なっちゃったんだ・・・ 「・・・君のような未来ある若者がこんなことで芽を摘まれるのは酷だと思ってね。 家事を一通りこなせるのなら・・・どうだろう、ちょうど今我が校の寮の管理人に空きがあるんだ。 そこで住み込みで働けば、卒業までの学費生活費雑費その他免除というのは」 「え・・・!?」 「まあ気休めかもしれないが・・・ちゃんと卒業してからの方が返してもらうにも確実ではないかね」 「それは・・・そうですけど、いいんですか!?そんな、学費まで」 「もちろんうちの学園に編入してもらう必要があるけれど、君の学力は申し分ないようだし」 とにかく、帰る家もなくなってしまったわたしにとっては、これ以上ないほどのありがたいお話でした。 やっぱりこんな大きな学園の理事長さんなだけあって、とても心がおおらかで、素敵な人なんだと思います。 そんな人から逃げ出すなんて・・・パパ、だめだよ!早く帰ってきて。きっとこの人なら何か方法を考えてくれるよ・・・ 「今夜まではおうちに入れるようにしておくから。最低限の荷物だけまとめておきたまえ。明朝、この部下のベンゾウを迎えにいかせよう」 「はい!本当にありがとうございますっ・・・よろしくお願いします!」 いろいろと大変だろうとは思うけど・・・いつかまた、パパたちといっしょに暮らせるように、わたし、がんばるからね・・・! *** その女子高生が明るい笑顔を浮かべ、大きく頭を下げて理事長室を出た後、しばらくして部下の男が口を開けた。 「・・・なぜこんなまわりくどい真似をなさるのですか?貴方なら、普通に求婚されても断る女性はいないでしょう」 「僕はね・・・聡明で従順で家庭的な伴侶を探しているんだ。けれどそんな人間はどこにもいなかった。 だから考えたのさ・・・・・・・・・いないなら・・・育てればいいのだとね・・・」 理事長は、さきほどまでの態度からは想像できないほどのしたたかな表情で微笑んでみせた。 その手には、皆本シズカの写真と、『調査報告書』と書かれた資料があった。 ・・・これが・・・昨日突然管理人の小池さんがやめさせられた理由か・・・ 相変わらず、趣味の悪いことを考える人だ。 僕は、音をたてずに理事長室の天井裏から抜け出しながら、そう思った。 まあいい、早く帰ってノビタくんに報告しよう。 *** |